Part 1.
「日本に腕時計のマーケットがなかった20年前。
ブローカーが軒先に時計を並べても店と呼べる、そんな時代だった」
お二人が腕時計と関わるようになった経緯は?
成瀬氏(以下、成瀬)
「若い頃は皆そうだけれど、僕もファッションや音楽にすごく興味があった。10代の頃は名古屋から夜行バスに乗って東京に洋服を買いに行ったくらい。原宿や渋谷に影響されて、ファッションを楽しんでいるうちに、靴とか腕時計とか小物も気になり出して。いいな、と思う腕時計や靴を買い始めると、次第に洋服よりもそっちの魅力に取り憑かれていったんです」
中山氏(以下、中山)
「成瀬さんはお洒落だからね。僕は20年程前に東京・中野でアメリカの古着や雑貨を扱う『ジャック・ロード』という店を始めた。アメリカでリーバイス501の古着などを仕入れるのと一緒に、少しずつアンティーク腕時計を仕入れるようになって…。ハミルトンとか、ブローバ、エルジンとかね。そのうち、日本でのアンティーク時計の核となるロレックスの手巻きアンティークも扱うようになって…。そこからだね、僕の時計との関わりは」
- 成瀬
- 「中山さんはビジネスの観点から時計と関わるようになった。僕が時計がビジネスになると思ったのは、20代の頃。ちょっとしたきっかけです。当時の僕にとって腕時計はなかなか手の届くものではなかった。それでもどうしても欲しくて、何とか貯金して10万円程で買ったロレックスを腕にしていたら、知人に“売ってくれ”って言われたんです。しかも、自分が買った値段よりも高く売れて。“あ、これは商売になる”って思いましたね」
- 中山
- 「今のように、腕時計のマーケットが確立されていなかったから、輸入腕時計は値段があってないようなものだった。成瀬さんが知人に売ったように、言い値で売れたこともあるよ」
僕が市場を創り上げたなんて気持ちはない。
ただ時計が好きで、ひたすら歩んだ後に、道が出来ていた・・・。
- 成瀬
- 「そういう意味では、いい時代でしたよね(笑)。僕が本格的に時計をビジネスにしようと思った時、東京の中山さんに“時計のこと、教えてください”って言いに行きました。当時から中山さんは時計業界ではパイオニア的な存在で、有名人でしたから。格好良かったですよ、今で言う“チョイ悪”を、当時からやってましたね」
- 中山
- 「僕が格好いいなんて、言い過ぎだよ(笑)」
- 成瀬
- 「いや、本当に(笑)。ところで、当時『ジャック・ロード』では、金張りのアメリカンウォッチ、いわゆる角金が¥28,000~¥38,000くらいで店頭に並んでいました。その頃、通常でも¥68,000くらいの品だったと思うんですが」
- 中山
- 「古着などを扱う世界では、商品価格の7~8割が利益というのが当たり前だった。ところが他業種では、2~3割程の利益で十分に商売を成り立たせていて、しかも上手に規模を拡大させていた。ならば、僕の商売でもやれるんじゃないかと思って、利益を大幅に下げてみたんですよ」
- 成瀬
- 「それがアンティーク時計のブームを起こす大きなきっかけになった」
確かな眼と高い提案性がなければ、時代のニーズを捉えることはできないだろう・・・。
- 中山
- 「リーバイスの古着を買いに来た若い人たちが、アンティーク時計に触れて、ファッション・アイテムのひとつとして買ってくれた。若者でも買えない値段ではなかったからね」
- 成瀬
- 「すると次第に『ジャック・ロード』は、古着よりもアンティーク腕時計の方が有名な店になっていくんですよね」
- 中山
- 「一度休刊になっていた専門雑誌『世界の腕時計』が再発行された時に、広告出稿の話を持ちかけられて、試しに腕時計を中心に広告掲載してみたら、なかなかの反響で。それをきっかけに腕時計のニーズが大幅に増えてしまい、店舗も5坪と非常に手狭だったので、少し大きめの店舗に移転し、時計専門店としてリニューアルしたんですよ」
- 成瀬
- 「腕時計の顧客ニーズに応え、さらにニーズは拡大すると読んだんですね」
- 中山
- 「でも従来の古着や雑貨のニーズもあったので、元『ジャック・ロード』だった5坪の店を、『ベティ・ロード』という名の古着&雑貨の店にした。ところが古着と一緒にレディスのアンティーク時計を置いていたら、やはりこちらでも腕時計の方がニーズが高くて。やがて『ベティ・ロード』もレディスウォッチ専門店としてリニューアルすることにしたんですよ」
- 成瀬
- 「そこから『ジャック・ロード』『ベティ・ロード』がある中野ブロードウェイがアンティーク時計街として全国的にも有名になっていくんですから、時計業界にとって、本当に大きな偉業を成し得た人だと、改めて実感します」
- 中山
- 「成瀬さんも名古屋で頑張っていたよね」
- 成瀬
- 「僕が20代半ばで最初に始めた店も5坪程でした。当時は、時計ブローカーが軒先に時計を並べても店と呼べる、という時代でしたから、たった5坪でも、僕にとって大切な城で、多くを学んだ場所でした。
これだけは絶対に自分のモノにするんだ、と時計についてもの凄く真剣に勉強しましたし、多くの方々について、海外へ行き、現場で仕入れや卸についても学びました。よく海外に買い付けに行きましたよね。」
- 中山
- 「そうですね。仕入れとか言いながら、ほとんど遊びのような感じだった(笑)。若かったということもあるけれど、腕時計のフォルムの美しさや機械式時計の奥深さ触れることができ、またその素晴らしい世界を日本に持ち込むことができて、そういうビジネスを手掛けていること自体が本当に楽しかった時代だったね」